~傍観者は、時に身を任せ~晴れ後曇り

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ひぐらしのなく頃に巡礼レポート

9月10日に父と行ってきました。
順路は、入間(圏央道)(八王子JCT)中央自動車道
→(岡谷JCT)→長野自動車道(松本)→国道158号(中ノ湯)
→安房峠道路750円→(平湯)国道158号→国道47号→中部縦貫道→東海北陸自動車道
→600円(開通割引)白川郷→国道156号
走行距離347~km
白川郷まで掛かった金額6,550円
時間にすると6時間いろいろよると7~8時間掛かる。詳しい事は、高速日和等NEXT等で調べてから計画的に決行して下さい。
平湯から新穂高に行って空中散歩&新穂高に行ってきました。(新穂高の料金と駐車料金は、入ってませんので御了承ください。)詳しいことは、高山市(社)飛騨高山観光協会のHPを参照してください。
※白川診療所と園崎家の庭園は、撮れなかったのです。
ではでは、前置きが長いので、写真をup
しますが、間違っていたりするの御了承ください。
まずは、
前原低
DSCF0139_convert_20080911180231.jpg
祭殿具前
DSCF0135_convert_20080911181456.jpg
祭殿具
DSCF0136_convert_20080911180912.jpg
村の全景
DSCF0120_convert_20080911182204.jpg
梨花ちゃんハウス
DSCF0118_convert_20080911182625.jpg
北条家とレナと園崎家本家が気になるならメールで送ります。(前原低~村の全景、
公家等)
古手神社
DSCF0113_convert_20080911183845.jpg
痛い人の絵馬は名前が入っているのでupをする事が出来ませんでしたので、気になる方のみメールで送ります。
梨花ちゃんの死体現場
DSCF0129_convert_20080911184013.jpg

最後に、泊まった宿情報

民宿 ふるさと(みんしゅくふるさと)

宿タイプ民宿 住所 〒501-5627 岐阜県大野郡白川村荻町588[MAP] TEL 05769-6-1033 一泊二食付料金(税込) 大人:8500円~チェックイン/アウト チェックイン 15時半ごろ~ チェックアウト 9時ごろ
※宿や白川郷について:白川観光協会のHPを参照して下さい。
http://www.shirakawa-go.gr.jp/search/?m=1

感想

すこし残念なのは、白川八幡神社(古手神社)の足場周辺を改修工事をしていた事と絵馬・・・・・。お前ら、いくら好きだからってそんな事をするなよ。宮司は、困るだろ。これを自重しろというのかな?
愚痴は、これくらいにして白川郷を見ると何か和みます。和って言うものですかね。此処に来たら、また来たくなります。今度は、H氏とK氏とY氏達と来てみたいと思うくらいだ。
※補足ですが、此処は電車とバスで行ったほうが良い事と此処はTVも何も無いのでワンセグチューナー付きDVDプレイヤー等を持って行った方が良いです。何故なら、夜が早いので暇です。就寝が20時だった筈(笑)
追記として、御母衣ダムを書いたので見てください、時間の関係上写真は無しです。
写真撮影に関して、参考にしたサイトのURL
http://www.dengeki.ne.jp/repo/higu/
http://outdoor.geocities.jp/hinamy2006/
御母衣ダム
御母衣ダム(みぼろダム)は岐阜県大野郡白川村大字牧地先、一級河川・庄川の本川最上流部に建設されたダムである。
電源開発が管理する発電専用ダムで、堤高131.0mの日本屈指の規模を誇るロックフィルダムである。電源開発が施工したダムの第一号であり、奥只見ダム・田子倉ダム(只見川)と共に「OTM」の頭文字で呼ばれ電源開発を代表する水力発電所の一つである。ダムによって形成された人造湖は御母衣湖(みぼろこ)と命名された。本工事に着手、1961年(昭和36年)にダムは完成した。型式はロックフィルダムの中心にあって水を遮る壁(遮水壁)が斜めに傾いている「傾斜土質遮水壁型ロックフィルダム」である。完成当時は「東洋一」と呼ばれ、「20世紀のピラミッド」と形容された。
ダムの建設される地域は白川村と大野郡荘川村(現・高山市荘川町)にまたがる。かつて『下下の国』と呼ばれコメの収穫がほとんど見込まれなかった飛騨国において、この地域は貴重な穀倉地帯であり、かつ木材運搬などで豊かな土地柄であった。ダム建設に伴い174世帯・230戸が水没し約1,200人が移転を余儀無くされることから、水没予定地の住民は猛然とダム建設計画に反対した。彼らのうち5集落の住民は1953年(昭和28年)にダム反対のための住民組織「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」を結成し、ダム建設に強く抵抗した。これに対し時代の要請から事業の推進は絶対的使命であった電源開発は住民との粘り強い交渉を長期に亘って行うことになった。
電源開発の初代総裁・高碕達之助は自ら白川村に足を運び、「死守会」の書記長で反対運動の先頭に立った若山芳枝とたびたび交渉。時には涙を流しながら心情を吐露し住民への説得を続けた。補償交渉は足かけ6年で妥結され、1959年(昭和34年)11月13日に高碕も出席した解散式をもって「死守会」は解散した。
※Wikipediaを参照
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